賢京小説
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Wine-colored Valentine

「勘違いしちゃったの」
 チョコレートの山脈の向こう側から、京はそう言った。
「コンビニの商品の発注ってェ、単位が個のときとバルクのときがあるの」
「はぁ……」
 小さな銀紙の包みを開くと、瓶の形をしたチョコレートの粒が現れた。一乗寺賢はそれをしばらく眺めてから、ゆっくりと口に運んだ。1箱12粒入りのチョコレートの箱。賢ひとりですでに2箱を空にしていたが、それでも炬燵の上にはまだ20箱近くのチョコレートの箱が積まれていた。
 京の説明によると、コンビニの商品を発注する際、単位を勘違いして、20箱取り寄せるつもりが、1バルク10箱の商品を20バルク、つまり200個取り寄せてしまった、ということだった。バレンタインデー用のワインボンボンだったが、売り切れるはずもなく、発注をした京が責任をもって処分させられるはめになったのだという。
「よりによってワインボンボンでしょ? ホークモンに食べさせたら、一個ですごいことになっちゃったし」
 どうすごいことになったのかは、賢は聞かなかった。今、この場にホークモンがいないことから考えて、よっぽどのことがあったに違いないと、賢は思った。
「賢くんも、無理しないでね」
「京さんも」
 京の手元にも、すでに2箱、空箱が積まれていた。ふたりは顔を見合わせて笑った。
 笑いながらも、賢の思いはやや複雑だった。バレンタインデーに、京はわざわざ賢の家まで出向き、チョコレートを届けてくれた。そのとき、来週の日曜はうちに来て、と言われ、それが今日だったのだが、来てみれば待っていたのは売れ残りのチョコレートの山。情緒に欠けた気分になっても仕方がなかった。さらに京の言葉が追い討ちをかけた。
「伊織にはちょっとあげらんないしィ。大輔でしょ、タケルくんでしょ、あと泉先輩とヤマトさんと……」
 ワインボンボンを配った相手の名前があがるたび、賢の胸がちくちくと痛んだ。たかが売れ残りの処分のことで自分は何を考えているのだろう、賢の理性の部分はそう思ったが、感情の部分がどうしてもささくれ立つのを止めようがなかった。ワインボンボンを渡された相手は、当然バレンタインデーにも京のチョコレートを貰っているに違いないのだから……。京があげた名前の中には、ヒカリや空といった女性も含まれていたが、賢の感情の部分にはその声は届いていなかった。
 胸の奥に、得体の知れない感情が湧き上がってくるのを抑えられない。いや、得体の知れない、というのは嘘だ。その感情がどういう性質のものであるか、賢にはわかっていた。わかってはいたが、認めたくなかった。そんな感情を抱く権利も資格も自分にはないのだ。自分は京にとって何だというのだ……。
「どしたの、賢くん?」
 うつむきがちの賢の顔を、京が身をかがめて覗き込んだ。賢は慌てて首を振った。ごまかすように、賢はワインボンボンの粒をふたつ続けて口に入れ、力をこめて噛みくだいた。チョコレートの甘さと、苦いような辛いようなワインの味が混ざり合って、賢の複雑な胸の内に飲み込まれていった。
「んー?」
 京がさらに首を傾け、賢と視線を合わせようとする。からかっているような、いたずらっぽい表情だった。賢は頬のあたりに熱が集まるのを感じた。心の中を見透かされているような気がした。
 京は炬燵から足を出し、向かい側から賢の右手の方へと座る位置を変えた。そしてティーポットを手に取ると、その中身を空になっていた賢のカップの中へ注いだ。
「『おう姐さん、こんな美人に酌してもらえるなんてたまんねーな』」
 低い作り声で京はそんなことを言い、くすくすと笑った。賢がつられて笑うと、今度は京はむすっと口をとがらせた。美人じゃないのォ? と、不満そうにつぶやく。賢の笑顔がひきつった。賢の困った顔を見て、京はまた吹き出すのだった。
「ねえ、これって」京はワインボンボンの粒を手に取り、賢の目の前に示した。「チョコの部分って表面の薄いところだけじゃない? 不幸中の幸いよね。もし中身までびっしりチョコだったら、あたし、すごいおでぶになってたかもしれない」
 自分の言葉にひとしきりくすくす笑った後、京はふいに深刻な顔をした。
「本当かな?」
「えっ?」
「本当に、太らないと思う?」
「さあ……」
 首をかしげる賢を見て、京は苦い顔つきをした。その表情のまま、つまんだものを口に入れる。
「あーあ、どうせなら、ここんとこについてくれればいいのよ」
 京は広げた掌を自分の胸に押し当ててみせた。賢は顔を赤らめて目をそらした。
 昨今の京は急激に大人びてきていた。出会った頃、賢と京の背丈は同じくらいだった。賢の身長は決して低くなかった。京の背が高かったのだ。そして、今もそれほど変わらない。賢の背が伸びた分、京も成長していた。そして、成長の質という点では、京がはるかに賢を凌駕していた。日に日に女性らしくなっていく京の姿は、ひとつしか違わない年齢差を、賢にひどく大きなものに感じさせた。
 賢もこの春から中学生になる。しかし、京と同じ学校ではない。もし、同じ学校へ通い、毎日のように顔を見ることができれば、逢うたびに変わっていく京に焦りを感じずに済むだろうか。ひとつの年齢差と、いくつかの駅の距離が、賢には歯がゆかった。
(そんなに急がないでください)
 賢は、心の中で、ずっと先を歩いている京の背中に向かって呼びかけた。いつかその距離が埋まったとき、京に追いついたと確信したとき、自分はどうするだろう──そもそも自分は、京にとってどんな存在でありたいと、どんな存在になりたいと思っているのだろう……。未来を思えば思うほど、現在の、京の言葉に一喜一憂し、京の成長に焦りを覚える自分が卑小に思えてくるのだった。
 賢の思いとは無関係に、京は喋り続けていた。学校のこと、友達のこと、パソコンのこと、何度も聞いたようなことも混じっている。賢はほとんど相槌を打つだけだったが、京はそれで満足しているようだった。
 京はいつもお喋りだったが、今日は特に回転が速かった。次々とワインボンボンを口に入れ、飲み込むそばから喋り続けていた。京はこんなにもお喋りだっただろうかと、賢が不審に思うほどだった。
「あたしってお喋りでしょォ?」京が、自ら宣言した。
「何も考えないで、べらべら喋っちゃうの。喋るだけじゃなくて、やることなすことそうなんだけど。だから、こんなにいっぱいチョコレートがやって来るんだ、って、お兄ちゃんに言われたの。でも、あたしだけじゃなくて、うちはみんなお喋りなのよォ? 兄妹しめて4人もいるから、いったん喋り出すと、もう、すごい騒ぎ」
 京は早口でまくしたて、いったん言葉を切り、ワインボンボンを口に入れた。紅茶でそれを流し込むと、再び口を開いた。
「でも、相手がいないとお喋りもできないもん。あんなのでも兄妹はいた方がいいよね……」
 京は、言葉の語尾を濁らせた。途中で何かに気がついたようだった。
「あっ、ごめんね、ごめんね?」
 京はばつが悪そうに頭をすくめた。賢は苦笑しつつ首を振った。こういうところはいつまでも変わらない人だと、賢は思った。
 賢は笑った。余計なことを考えすぎている自分がおかしくなった。自分を部屋に招いたことも、目の前に積み上げられたワインボンボンと同じで、深く考えて行ったことではないのだろう。自分でなければならない理由や必然はなかったのかもしれない。しかし、京のそばにいられることは、そばにいられないことよりも、ずっと好ましいことではないか。今の自分は、それだけで満たされるべきなのだ……。
 賢の笑顔に安堵した京が、再び喋り出した。その声が、やさしい音楽のように耳の中で心地よく響き始めるのを、賢は感じた。
 賢はふいに眠気を覚えた。ワインボンボンの包みを開く自分の指の動きが、やけにゆっくりになっているような気がした。やっと姿を現したチョコレートの粒を、口に入れ、噛み砕く。熱を呼び起こす液体が、喉から胸へ、さらに身体の奥底へと流れ落ちていく。身体が熱くなるほどに、思考の潮は退いていった。
 京の声が止んだ。子守唄が途中で止まったような錯覚。賢ははっとして京の方を見た。
「お茶がなくなっちゃった」京はそう言って、ティーポットを持って立ち上がった。
 京はティーポットを持って部屋を出て──行かなかった。京はドアとは反対の方向へ歩いていき、そして操り人形の糸が切れたように、ばったりと倒れこんだ。
「み、京さん!?」
 賢は炬燵から這い出し、自らも足をもつれさせながら立ち上がった。そして、倒れた京に駆け寄った。
 京が倒れたのはベッドの上だった。おかげでティーポットが割れることはなかったが──賢は仰向けにつっ伏した京の身体を引き起こした。幸いにして、眼鏡も割れてはいなかった。
「京さん!」
 眼鏡の奥の瞼が、賢の呼びかけに反応した。瞼がゆっくりと開き、半分開いたところで止まった。
「あー、なんだか急に眠くなっちゃったぁ」
 熱にうかされたような声で、京はそう言った。賢は絶句し──それから安堵の息をついた。
「……眠い。寝るぅ」
「わ、わかりましたから、離してください」
 賢は抱きかかえた京の身体をベッドに横たえたが、京の両手が賢の肘のあたりを掴んだまま離さないので、賢が京に覆い被さるような形になっていた。そんな格好になっている自分たちの姿を、京は薄目を開けて見やり、まるで他人事をからかうように笑った。
「京さん!」
「なぁに、賢くん」
 再び目を閉じ、うわごとのような返事しか返さない京を、賢はもてあました。京と触れている部分が多すぎる。京の顔が近すぎる。自分は紅潮しているのだろうと、賢は思った。京が再び瞼を開く前に、京の身体から離れたかった。
 しかし、気持ちとは裏腹に、次第に京の顔が近づいてきているように、賢には思えた。京の、朱の差した頬、赤い唇、まつげの一本一本までが、賢を捕え、引き寄せる力をはらんでいるかのようだった。
 ──あれ? 賢は感覚の失調を覚えた。地面がぐらりと揺れたような気がした。頭の中で、また潮が退いていく。そしてそれきり波は打ち返してはこなかった。遠くへ消えた波の音の代わりに、京のささやきが聞こえてきた。あるいはそれは寝言だったのかもしれない。
「ごめんねぇ、賢くん。でもチョコレートは口実だったんだから、コージツ……」
 コージツ? 何のコージツだと言うのだろう。胸のあたりがかぁっと熱くなるのを、賢は感じた。京の言葉の意味を理解できたような気がした。しかし次の瞬間には忘れていた。頭の中がからっぽになっていく。それなのに、どんどん重くなっていく。首が頭を支えていられない。京との距離が、どんどん縮まっていく。縮まるごとに、賢の視界は狭く、暗くなっていった。
 自分の唇が、同じ柔らかさをもった何かに触れたような気がした。柔らかくて、温かくて、そして、ほんのり甘い味──チョコレートの味だと、賢は思った。
 それが、一乗寺賢が最後に感じた意識だった。


 ドアを何度かノックしたが、部屋の中にいるはずの人間から返事は返ってこなかった。
「京ォ、いないのー?」
 京の姉、百恵は、不審に思いながらドアを開いた。最初に彼女の目についたのは、炬燵の上に散らばったチョコレートの箱だった。空になったものもあれば、包装紙に包まれたままのものもあった。
 百恵は顔を左の方へ向け、その視線はベッドの上で止まった。彼女は眉をひそめ、何度かベッドの上のものと炬燵の上のものを見比べた。
 ベッドの上で、妹とその友達が大の字になって寝息をたてているのを、百恵はあわれむような目で眺めやった。
 妹の隣で眠っているのは、たしか賢とかいう子だ。最近、妹がもっとも話題にのぼらせることの多い男の子だ。妹にとって、その子がどういう存在であるのか、百恵はよく知っていた。
 百恵はそっと足を運び、炬燵の上に散らばったチョコレートの粒のひとつを取り上げた。そのチョコレートがどのような種類のものかも、彼女はよく知っていた。チョコレートと、そしてわずかなアルコールの匂いの残滓が、まだ部屋の中に漂っていた。手に取ったものを口に含むと、同じ匂いが口から鼻にかけて広がった。
 妹の周りにはどういうわけだか物堅いタイプの男の子が多い、百恵はそう感じていた。一乗寺賢もそのひとりだった。物堅い上に、物腰おだやかで引っ込み思案だ。挨拶程度でしか会話を交わしたことはないが、百恵は賢のことをそうとらえていた。

 これは後々たいへんなことになるだろうな、と百恵は野次馬根性まじりに考え、実際、その通りになった。

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